表題のところを赤裸々に書くと、あまりの闇の深さというか罪深さに絶望しますし、後ろから刺されるかもしれないので、本記事では、まろやか〜に話を進めていきたいと第1段落では思っています。
今日は「児童用デジタル教科書の活用」「情報モラル教育を各学校どのように展開しているか」「職員研修の頻度と内容」について学校間の情報交換がありました。
児童用デジタル教科書の活用について
児童用デジタル教科書は、ほとんどの学校が使用していませんでした。本校でもほとんど使用していません。ですが、これがすなわち「活用に値しない」と断ずるものではないのです。というか正直今現在、活用の現状を情報交換する意義はほとんどないと私は考えています。なぜならば、そもそものデジタル教科書の整備が不十分だからです。国としてもまだ議論がまとまっていない状態です。税金で無償化できるのは紙かデジタルかどちらか一方が限界とされていますし、そもそも今のところ「紙の置き換え」「機能がちょっと増えただけのもの」というものです。これからのデジタル教科書のあり方を議論するならば、「置き換え」ではない、コンテンツのあり方から問い直すべきものだと思います。
また「教科書とは」という哲学的に聞こえるような問い直しから必要だと考えます。ネットにつながりあらゆる秀逸なコンテンツがある中、「これで学習することを基本とする」というものがそもそも必要なのかという点から考える必要があるからです。教科書は子どものためにあるのでしょうか、それとも教えるための道具として教師のためにあるのでしょうか。
近年の教科書は、非常に「自学」に向いた構成になっています。この点においていえば、私はデジタル教科書の存在意義は十分にあると思っています。今の「教科書で自学できる力」を育てることも大事な教育だと思えるほどです。小学校は教師が懇切丁寧なゆえか、パワーバランスの問題ゆえか、先生の指示に従うことを第一にしている子どもがほとんどです。その弊害か、教科書が載せているマスコットや登場人物の「セリフ」や「考えの吹き出し」や「何ページを参照して確かめよう」というものを手がかりに学習を進めようとする子が少ないです。教師から教えてもらうフェーズ、協働的に学ぶフェーズ、自分がデジタルデバイスやノートに蓄積したポートフォリオや教科書をもとに復習やふりかえりを行なっていくフェーズなど、学びの伴走者としての伴走に仕方を考えていく局面にあるといえます。
児童用デジタル教科書には、教科によって向き不向きがあると感じています。国語や英語はかなり有効だと感じます。一方、算数や社会は不向きだと感じます。なんなら現在子どもたちは教科書にあるQRコードのコンテンツで学びを進めることができており、事足りているのです。答え合わせをするとか、動画のシミュレーションを見るといったことは、コンテンツとして足りています。国語では、教科書にはしづらいマーカーをしたり、メモを直接書き込んだり、音声読み上げをしたりなど、教材を使って学びを直接構築することができるので、有効に感じます。
以上のように、マクロの議論が多いし、教科によった特性などを踏まえた議論などが必要です。それをせずにただ「使っているか使っていないか」で情報交換しても何の意味もありません。「使っていない=使うに値しない」という雰囲気だけ共有してもマイナスなだけなのです。
情報モラル
情報モラルという抽象的な言葉で情報交換ができるわけはないと思ったのですが、ほとんどの情報担当の先生としては、いやおそらくほとんどの教員にとって情報モラルとは、「だめな使い方をして、大変なことになってしまう」から、「使うな」「厳格なルールを守れ」「びくびくしながら使え」ということを高圧的に刷り込むものだという共通理解がなされているのだということが、よくよく感じられました。
高学年から年に1度外部講師をよんで授業を1時間してもらうという形式が多いということ。キャリアや警察の情報モラル講座をやればよいと考えている学校がほとんどだということ。道徳の教科書におまけのように載っている情報モラルを、少し時間をとってやるようにしている学校がわずかにあるということ。これが現状だったということに愕然としました。
先日、本校では、端末持ち帰りの準備段階として、また本市が導入した「心のモニタリング」のような機微情報を守るために、端末パスコード設定をしました。とあるところからの好事例として紹介された「入学年度+出席番号」のような一意のパスコードなんて言語道断で、「先生もお家の人も、誰にも教えないパスコードを考えて設定しましょう」と案内しました。
パスコードを設定する理由としてはっきり伝えたのは、「デバイスでつくる、デバイスに保存するデータをもっともっと大事なものにしてほしいから」「今ある、あなたのデバイスをもう1段階ステキな宝箱にしよう」ということです。端末を自分のお気に入りにするというのは、その端末でできることに魅力があるから、そしてその端末に自分の大切なものをしまっておけるからです。そういう意識をもっともっと高めてほしいというのが私の思いなのです。
本校では、「情報の善き使い手になるために、プラスとなることを教えていく」ことは教師が担うことで共通理解をしています。と同時に「しかしながら、どうしても世の中には悪い人が、弱い人をおとしめようとしている現実があるから、そこは外部の人にも話してもらおう」ということを共通理解しています。
本来、情報モラルはもっと広義であったはずです。しかしながら、あらゆる「使いたくないから使わせたくない」「使わせたくないからこわがらせておきたい」といった人々の共犯関係がゆえに、情報モラルは非常に負の強化がされてしまいました。デジタルシティズンシップ教育は、現実に立脚し、「深く考える」ことをしつつ考えのその先は「善き使い手」に向かうという方向がはっきりとしています。
学校の教育の現状を受け止めて、「情報モラル」か「デジタルシティズンシップ」か、名前はどっちでもいいから方向性を修正していければと考えてやってきましたが、どうも「情報モラル」という言葉にしみついたものが大きすぎるので、決別した方がいいのかもしれないと思えてしまいました。
一点だけ釈明しておきますと、情報モラルを推進している人でも、そして学校の教員の全てが「子どもたちが犯罪に巻き込まれてほしくない」「子どもたちが安全に健康にくらしてほしい」という思いをもっていることは確かです。
職員研修の実情
GIGA端末が入ってくる頃は、ちょうどコロナ禍で、必要感からかかなり操作の仕方の研修や、コミュニケーションツールや学習プラットフォームのアプリ研修がなされました。
現在は、ほとんどそれがありません。よい意味で言えば、先生方に使い方が浸透してきており、学年研などで、アプリのよい使い方やコンテンツの共有がされています。全体で研修をもたずとも、だいぶ先生方で活用が進められている状態です。(本校では)
悪い意味で言えば、教育委員会などから次から次に唐突に降りてきたものを、「どうにか職員全員が使えるところまではやらなくては」とインターフェース紹介などをするような研修が多くなってきているということです。
忙しさもニュースで毎日のように出てきますが、いよいよな状態にきているなか、それが「働き方改革になるのか」「ただただ、より面倒くさい新しいものが増えたのか」判断に苦しむものがあるというのが実感です。
本来、教育はマクロの話を抜きには議論できないんです。でも、ここまで自転車操業の状態だと、ほとんどの先生は目の前の課題に向き合う他ありません。そこで精一杯なのです。だから、情報交換会が無駄だったとか、そこに集った人の視座が低いとか批判するつもりは全くありません。ただ、情報交換をしただけでは、何も解決に至らないのは事実です。そこから議論をしていかなければなりません。
私にできることをもっとちゃんと考えていきます。
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