自分本位、相手本位という言葉は、主に二者間で使われる言葉かと思います。
相手が近しい人、あるいは慕っている相手に対しては、どうしても自分本位になってしまうことがあります。それは良い言葉で表現すれば「信頼」だと思います。きっと相手は自分の思いを受け止めてくれる、そんな信頼感があるから。
と同時に、ついつい近しい相手だからこそ「要求」を込めてしまうことがあります。「期待」と言えば聞こえはいいですが、自分本位の思いを投げて、それが返ってくることを待つのが期待なのかもしれません。相手が好きなことと、相手を大事にしたいことはちょっと違うんですよね。若く恋した時のことを思い返せば、そういった「自分本位」を認めることがあるかもしれません。
二者間であっても、相手本位というのは難しいです。そして、相手本位が必ずしもよいかもわかりません。
さて、ある二者間の関係に対して、自分が第三者として関わろうとする場合はどうでしょうか。
周りからその二者の関係、パワーバランスなどがどのように見えているかをうかがうでしょうか。あるいは自分よりも立場が上の人の「見方」をうかがうでしょうか。私はそれをしないことが「自分本位」だとは思いません。人が作った見方から組み立てることは、本当の意味で「相手本位」にはならないと考えるからです。
とはいえ、両者に対して「相手本位」で自身の立ち居振る舞いを決めるのはとても難しいです。
二者に対する自分の距離感が異なっていることが一つ。片思いの相談を聞いている友達とか、相手の愚痴を聞いている友達のような立場、あるいは恋敵とか、利害関係が一致しているとか。フェアな立場でそこに関与しなければ、たとえ「近しい側」の相手であってもそれは「自分本位」になることでしょう。寄り添った言葉は、相手の要求を満たすことになるかもしれませんが、本当の意味でそれが相手のためになるかどうかは分かりません。相手よりも相手の未来を考えて発する言葉だって、自分本位です。相手を利する、かつ相手の思いに応える・相手の思いを実現すること。この「相手本位」が第三者であったはずの自分と相手との二者間関係に置き換えられてしまいます。
もう一つは、二者とも「自分本位」「相手本位」は互いに向けられているのであって、こちらには向けられていない分、関与の要求そのものがまやかしだということ。やはり自身がそこに関与しようとしているのは、組織としての要求や立場としての役割意識といった外的要因を盾とした「自分本位」になっているということ。
私の生涯の哲学課題である「傲慢」は、いつだって私に問いかけてきます。
その中で、自分を戒めながら、人の「生きて築いてきた過去」と「今」、そして「その人自身が見据えている未来」を一生懸命うかがい知る。その上で私なりの傲慢を謙虚に行使していくんです。
二者間に関与していくときは、両者が互いをどのようにリスペクトしていくか、そこを一番に考えます。自分が受け止めるのがいいのか、言葉を発するのがよいのか、飲み込むのがよいのか。その振る舞いは、ひとえに両者をリスペクトする自分が基点にあるかどうかです。
街路樹にハナミズキがきれいに咲いているのを見て、そんなことを考えたのでありました。今は、願いくらいしかもてませんが、「君と好きな人が100年続きますように」って、何も恋の話じゃなくってもね。
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