教師たる所以

教育

 先に申し上げておくと、私はマニュアルが苦手です。ですから、私の立ち位置というか、主張は、前時代的に聞こえるかもしれません。ただ、いったん書いてみて、最後にその考えが「得意不得意」による立ち位置の違いからくるものなのかを改めて問うてみようと思います。

「ねらいはお読みください」という職員会議提案

 職員会議は、校長の職務執行の補助機関で「意思決定機関」ではありません。ただ、職員全員が共通理解をもって教育活動にあたっていくために非常に重要な場であります。部署で練られた提案について質問をしたり意見を出したりして、修正含めて理解していくためのものです。

 では、何の共通理解をするかということですが、通常考えられるのは「目的」と「手段」ですよね。どのような目的でどんな活動をどのように行うのかの認識をそろえていくということ。認識というと個人の表面的なとらえになりますが、丁寧な説明や対話を通して個々人の認識をそろえていく、それが私の考える「共通理解」です。

 学校というのは基本的に毎年同じことを繰り返します。定期健康診断・避難訓練などは当たり前として、運動会や遠足といった行事もそうです。もっと言えば異学年交流や児童相談アンケートのようなものも同じような時期に同じことをしています。

 同じ学校に何年かいれば「この学年でこの時期にはこういうことをする(子どもにこういうことをやらせる)」といったことがわかってくるでしょう。では、他の学校でも多少の違いはあれど、同様のことをやっていることも多いでしょう。

 それでも私は「目的」の理解が一番大事だと考えています。確かにスタッフとして運営していくには、自分の役割が何かとか、何をどのように取り組ませるのかということが関心ごとになるのは理解できます。しかしながら、目的なくして、教育活動は行えるのかと、私はそう問いたいのです。

 「いつもの通り」だから「ねらいはお読みください」とすっとばして、段取りだけを話すのであれば、そもそも職員会議は必要なのだろうかと疑問に思います。一つ一つの「何を」「どのように」が、「なんのために」に係ってこなければ意見など出しようがないのです。そうなると職員会議中に出てくることと言えば「私の役割がこっちとかぶっていてできない」「しめきりがきついから、もう1週間伸ばせないか」とか、提案の下書きに指摘するようなことだけになるでしょう。

 もちろん、職員会議で目的がひっくりかえるような提案なんてしてもらっちゃ困るんです。事前に部署で練ってほしいと思います。またもちろん、会議の時間を極力減らして働き方改革をしていく必要があると思います。ですが、目的の共通理解を軽んじては、教師たるは何たるやと思ってしまうのです。

朱書きの教科書や指導書のまんま授業

 ものすごく高価ですが、教科書に朱書きで指導する内容が書かれた教師用の教科書が販売されています。板書案や発問例、授業の展開例などが載っています。算数の朱書きだと「答えが載っている」という利点(子どもに言わせればズルい)がありますが、それは教師からすればほとんどおまけです。実際今の教科書はQRコードで練習問題の答えが表示できるので、子ども自身で答え合わせができますから、教師用教科書に答えが書いてあることの利点はほとんどなくなりました。

 また、指導書という、これまたとても高価なものがあります。教科書に準拠して、どういった目標でどのように展開して、どこで評価していくかなどが事細かに載っているものです。アカデミックな内容が載っていたり、国語の指導書でいえば作者インタビューなどがコラムに載っていたりするなど、専門的に学びを深めていく図書と言えますが、使われ方の実態としては、事細かな授業展開例を参照するという感じです。

 朱書きの教科書を携えて授業をする教師がいます。自分で用意した授業案とかメモを確認しながら授業をするのと、朱書きの教科書を見ながら授業をすることは、表面的な振る舞いとしてはたいした変わりはないように思います。ただ、授業中に教師が何を念頭においているかには、大きな違いがあるように思えます。子どもに期待するものを思い描きながら決めてきた自身の振る舞いと、自身がどのように振る舞うかという関心にとらわれながら朱書きを携えているのとでは、天地の差があります

 自身の計画と目の前の子どもの姿とがうまく噛み合わないときに、柔軟に次の一手を出せるのは、やはり「ねらい」を教師自身が腹落ちしているかに関わっています。複数のカードを用意できていればよいかもしれませんが、ねらいなくしてカードだけを複数持ってきても、ただ無意味にカードをきるだけですし、逆に準備が不十分であっても「ねらい」が理解できていれば、目の前の子どもに対してどうにか捻り出そうとする努力はするでしょう。

本時を他のクラスで試行するという授業研究

 これを言うと、うしろから刺されそうですが、これまでの教員人生の多くに研究推進委員長を務めさせていただいた私ですが、頑なに拒絶してきたのが「人のクラスを借りる」という行為です。

 単元まるごと引き受けて隣のクラスで授業をさせてもらうことには、一定のメリットがあります。死ぬほど忙しい日常の中で、どの教科もどの時間も全力の教材研究ができて臨めている教師などいません。ですが、年に一度くらい、研究授業のために一単元どっぷりと教材研究をしてくると、やはり高いパフォーマンス(指導効果)が望めます。ですから、単元丸ごとであれば、隣のクラスの子どもたちにもよい授業が提供されるという意味です。あくまで「一定の」と表現したのは、本来であれば学年の先生と一緒に教材研究をすることで、研究授業が本当の意味でみんなのためになるからであって、やはり「ここぞ」と決めた授業は、他の先生にも波及してこそだと思うからです。

 「子どもを借りる」「クラスを借りる」という言葉には、アレルギーがあるのです。クラスもクラスの子どもも教師の所有物ではないからです。

 厳しい先生は「目の前の子どもが変われば、授業は変わって当然」と言うでしょう。言葉としては真理だと同意しますが、本質をとらえてそれを語る教師と、格言のようにとりあえず発している教師もいるのではないでしょうか。私は、全く同じパッケージで授業しても構わないと思います。ただ、そのためにはブレないほどの目標理解と、トレンドをよむ力と、呼応して対処できる技術の豊富さが求められるでしょう。

「何をやらせるのか」ではなく「何を身につけさせるのか」

 指導主事の決め台詞に「活動あって学びなし」なんてものがあります。哲学的な見地に立ってみると、「何を学ぶか」を決める・実際に感受するのは子どもであって、教師が「こういう目的でこれをやらせる」というのを明確にしていたからといって、それが身につくかどうかはわかりません。でも、それを言ってしまうと元も子もないんです。教師の存在意義を疑わなくてはいけなくなります。一理あるとはいえ、いったんそこは措いて、「何を身につけさせるか」をもってして子どもに関わることが、教師たる所以なのではないでしょうか。

 頭でっかちな教師だと、授業がアカデミックすぎて、子どもが「お勉強マシーン」のようになってしまうかもしれません。かくあるべきだと説教じみた時間が多くなってしまうかもしれません。

 逆に、意外にも体験重視の先生の授業は、印象に残りやすく、子どもの活動量が多いために長い目でみたら主体的で深い学びにつながるなんてこともあります。

 子どもに「目的を十分に理解させる」ことを前提として授業をしようっていう話ではないんです。昨今そういう風潮がありますが、今回はそのことに言及しているわけではなく、教師はという話をしています。

 授業テクニックなどは確かにあります。手法などを学んでいくことは、教師としての力量の向上につながると思っています。ですが、やはり「なんのため」という、「子どもに何を身につけさせるか」ということがなければ、たくさんの秘密道具も慌てたときに4次元ポケットから放り出されるものにしかなりえません。(ドラえもんは整理ができていないだけで、目的はもっていて探しています)

 マニュアルが悪いのではなく、マニュアルの「運用」部分にしか目をむけないことはよくないと言いたいのです。

 職員会議の各提案にだって、朱書き教科書にだって、指導書にだって、「目的・目標」は書かれているのです。それを蔑ろにすると、うまくいかなかったときに「提案はそうじゃなかった(提案が悪い)」「私はこういう認識だった(私は悪くない)」という開き直りに陥りやすいのではないでしょうか。

 目標理解は、実は結構難しいのです。目的も大きすぎると「子どもを育てる」とか「人格の完成」とかでは意味をなしません。ですから、いわゆる「材のポテンシャル」を見出して、それを学年学級や個の特性にコミットしていくように目標の解釈や設定をしていくんです。それこそプロとしての教育集団だからこそ語っていけるものではないでしょうか。

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