ラーケーション批判

教育

 今年のGWは、あまりよい連休設定にならなかったためか、「家族旅行で子どもに学校を休ませること」についての是非が議論されているという記事をいくつか読みました。まあ、毎年ある話ではあり、定期的な議論な気がします。

 自治体・教育委員会によって「ラーケーション」が導入されたというものもありますし、それに対しても是非の議論になっています。先駆けの愛知県での2024年度における「ラーケーションの日」取得状況調査によれば小学生の取得率は36.2%(平均1.8日)となっています。

 そこで、現実に即して批判をしようと思います。私の立場は「私事で子どもに学校を休ませるはあり」、だが「ラーケーションは余計なお世話」です。

家庭事情の欠席を学校はどう受け止める?

 家事都合の欠席の理由に教員が「私情」をはさんで何かの評価に影響するなどは全くありません。ただ、後述する理由で欠席事由は学校に連絡した方がよいです。

休んだ分の学習フォローは家庭がする

 病欠にせよ事故欠にせよ、休んでいた期間中に進んだ学習についてのフォローは家庭がします。もちろん教員はフォローをしたい気持ちはありますが、現実的にはほとんど不可能です。20年前のように放課後に残してフォローするとかそういうこともできませんし。担任は、子どものいる時間(いない時間もだけど)に、休んだ分の授業の補填をする時間がありません。せいぜいどこそこまで進んだとか、次の学習の時間に他の子どもたちが学習課題に取り組んでいる間のわずかな時間にフォローする程度です。5時間授業の2日間を休んだとして45分×10コマをどこかで同じようにやってあげることは不可能です。よくて1授業分を1分ダイジェストで伝える程度だと思うとよいです。フォローしてあげたい気持ちはあっても、物理的に不可能です。

休んでいた期間中に出された課題も評価対象

 小学校であれば、提出期限の延期をしてくれる担任も多いでしょう。小学校の場合、課題を提出しなくても0点として扱われることは少ないです。単元全体で身についた資質・能力で評価するので、他の学習状況をあわせて総合的に判断します。ただ、中学以降は0点扱いになることもあると心得ておくべきでしょう。テスト、特に実技試験などがあった場合は、再試の機会については保護者の責任において依頼するものです。もちろん、病欠はこの限りではありません。(忌引きなど、のっぴきならない欠席理由も)

虐待は通報義務がある

 学校だけではなく隣近所であっても「児童虐待の防止等に関する法律」によって、虐待を受けたと思われる児童を発見した場合、通報する義務があります。虐待の有無がはっきりとしていなくとも「思われる」状態で通報する義務があります。放課後や自宅で子どもが何かしら怪我した際に、登園した際必ず保育士にその状況を伝えるというのも、子どもの安全を確実に保護者が把握しているかどうかの確認でもありますよね。小学校でも、子どもの心身の健康状態について把握することは、大事な業務にしています。無断欠席や、事由不明瞭などは、とても心配します。行き違いがあって失礼になってしまうかもしれないけれど、それを恐れず電話で確認をさせてもらうことになります。(虐待が疑われる場合は、家庭へ連絡するのではなく児童相談所に通報することになります)

欠席理由のプライバシーは守る

 欠席理由をクラスの子どもたちに明かすことはありません。これは病欠でも同じです。差別・偏見をさけるためです。ただ、コンプライアンスとしてそれが明記されていることはないと思いますので、これは「私の知るところ」かもしれません。他の先生が、「○○ちゃん、熱で休みなんだって、早くよくなってほしいね。」とか言っていたら注意します。コロナ禍の際にだいぶ徹底されたと思いますが、コロナ禍以降に採用された職員には、先輩が伝えていく必要があるかもしれません。

 旅行で休む場合、担任が何も言わなくてもたいていは友達がリークしてしまいますが。そういった際、私は「おうちの人の休みが学校の休みの日と同じとは限らないですから、家族の時間がとれることはとっても素晴らしいことですね。」と返すようにしています。

ラーケーション、意義は分かるが余計なお世話

学校教育以外の学びはとっても大事

 子どもの学びを、学校の教育課程に限定して捉えるのはあまりに窮屈すぎます。社会層における教育格差というのを語ることはタブー視されますが、事実としてこれは在るわけです。自治体教育委員会では、どの子どもにもさまざまな文化的素養を高める機会を提供しようとしています。横浜市では、教育委員会主催でクラシックコンサートの鑑賞会に全小学校を招待したり、抽選にはなってしまいますが、バレエや劇団四季などの鑑賞の機会なども設けたりしています。今、開催している大阪万博もさまざまな批判がありますが、そういった機会を提供しようとしている施策です。(動員ではない)

 ラーケーション(ラーニングをとバケーションをかけあわせた造語)の導入というのも、同様の意義があるのだと考えられます。

皆勤賞という前時代の幻想

 ラーケーションを「停・忌引き等」扱いにするというのですが、そもそも「皆勤賞」を表彰するとか昭和な学校はもはや絶滅危惧種です。そういう価値観は近年ではなくとうの昔に消えています。健康な体は賞賛されることですが、教育活動の中で人と比べて表彰されるものではありません。生まれながらにして病弱な人もいますし、また感染症の拡大に負の影響を与える側面もありますし、「皆勤賞」に固執しようとする家庭に対して学校はあまり歓迎ムードではありません。

 高校入試における内申書に出欠記録を載せることを廃止する自治体が増えてきているのが事実です。確かに私学受験の中で「出席状況」を書類の中に書くところがある学校は存在します。ただし、これも基本的には「在学証明」程度でしかありません。(一昔前は別だったかも)それよりも選考したい項目は他にたくさんあります。著しい欠席数がない限り、そこを指摘されることは限定的であると思います。(思うと書いたのは、私が全ての私学を知っているわけではないから)

 そうなると、「停・忌引き等扱いにする」というのは、無意味かつ恩着せがましいと感じさせます。病欠やのっぴきならない理由による欠席と同等に扱うというのは、不整合極まりないのです。先述した通り、学校の教員側が「欠席した分の学習を補償すること」は物理的に不可能でありますから、何にもなりません。家庭側の気持ちが「大手を振って歩ける」という心情面への訴求にしかならないのではないでしょうか。

評価材料にでもするのか

 たとえば私学受験において「ラーケーションを利用して、どのような体験を子どもにさせましたか?」とかいう話になるかもしれません。別に学校として、内申書にそれを書くことはないでしょう。学校が教育課程外のものを学校の評価に入れることもないでしょう。担任が子どもと面談をしてそれを応援したり賞賛したりすることはあるでしょうし、場合によってはつながる活動などを紹介したりすることもあるかもしれません。しかし学校の評価に影響することはありません。でも、受験には影響が出てくるかもしれません。

 そもそも「あなたは、学校外ではどのような学びを築いてきましたか。」とか、「学校外での社会参加の実績を教えてください。」といった面接での質問はあるでしょう。それは、受験で聞かれるかどうかによらず、大事なことであるのは間違いありません。ただ、制度としてラーケーションを導入してしまうと、そこで何かを取り組まなければならないようなものになりかねず、そうすると子どもが本来主体的に学びたかったことにそぐわない可能性も出てきてしまうのではないでしょうか。

公教育にもっと予算をつけるのが先

 格差を助長するのではという指摘は、当てはまると思います。家庭がどのような理由で子どもを休ませても、学校の教育課程は粛々と進みます。ラーケーションは、理念としてはとても有意義ですが、それはそれを実現できる社会基盤あってのものです。ひとり親家庭で、家庭内で子どもの宿題すら十分に見てあげられなくて必死に働いている家庭とか、介護で子どもの世話が十分にできない上に数日の旅行などで家をあけられない家庭など、制度による機会をうけられない子ども(そしてそれを心苦しく思う保護者)がいることが現実でしょう。

 制度は、点ではなく面でとらえるというか、成立させていかなくてはいけません。ラーケーション制度によって、自分の子どものために会社の休暇をとりやすくなるなど他の制度も必要になってくるかもしれません。ラーケーション導入自治体による制度拡大の動き企業側の協力も見られています。それでも自営業ですとか先述したような家庭もありますから、それよりは学校以外の体験教育施設ですとか社会参画イベントのようなものを広げていくとよいのではないかと、私個人としては思います。

 私は教育関係者ですから、学校外の余暇活動や、家族でのレジャー体験や文化的素養を高める活動、社会参加による学びの機会が増えるとよいなと思っています。でも、休日は大人にとっても大切な休息の時間であって、休日の使い方についてとやかくいうのは難しいなとも思うのであります。

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