2012年ごろから始まったとされるフェミニズム第4波。専門家でない一般人の私には、どの言葉をチョイスするのが正解かは判断できませんが、今日はあえてポストでないフェミニズムについて考えていきます。X上で見かけた投稿と、そこに寄せられるリプを眺めていて感じたことがきっかけでして、これはフェミニズムに限ったことではなく、今日の社会運動の進め方の難しさ全般に通ずるものです。
ポストフェミニズムとの区別
フェミニズムという言葉自体聞かなくなった
近年、メディアやSNS上で「フェミニズム」そのものを掲げる語りは減少傾向にあります。かわりに、
- ジェンダー平等
- 性の多様性
- インクルーシブ
- DEI(多様性・公平性・包括性)
といった、より包括的かつ中立的な言葉が使われる傾向が強くなっています。
これは、「フェミニズム」という語がある種のイデオロギー的色彩を帯びた言葉として捉えられやすくなり、避けられている面もあります。また、ジェンダーの課題が「女性だけの問題」ではないという意識の広がりとも関係しています。
ポストフェミニズムの勢いとその目的
現在はポストフェミニズム的な言説、あるいはLGBTQやジェンダーアイデンティティに関する議論の方が前景化しています。この領域の運動は、性別の「社会的なあり方」の変化を求めるという点でフェミニズムの系譜に連なっていますが、主眼が異なります。
項目 | フェミニズム | ポストフェミニズム |
---|---|---|
中心課題 | 社会的性差と構造的男女不平等の是正 | 性自認・性的指向・ジェンダー表現の多様性の受容 |
対象 | 主に「女性」とされる人々 | 女性・男性・ノンバイナリー・LGBTQ+などあらゆるジェンダー |
主張形式 | 権利獲得・構造批判・機会の平等 | 自己定義・多様性の承認・規範の解体 |
現実には、依然として女性の社会的地位や賃金格差、育児・介護の負担、性的被害への支援の不十分さなど、構造的な男女不平等は存在しています。決して「次のフェーズに進んだ」わけではありません。
したがってそれらの課題は、ポストフェミニズム的言説では「見えにくく」なりがちであり、むしろ再可視化されるべきフェミニズムの課題と思えるというのが、長くなりましたが私の立ち位置です。
被害者意識の「拡大適用」と、その波紋について考える
男女平等を目指して社会的な声を上げることは、紛れもなく意義のある行動です。特に、今なお女性が不利益を被りやすい構造の中で、その不平等に光を当て、変革を促していく動きには、男性としても全力を傾けていきたい思いです。
一方で、最近ときおり感じるのは、声の上げ方によって、かえって共感や対話が遠のいてしまう場面がある、ということです。この記事も、あるいは私の属性によっては、かえってフェミニストへの批判に受け止められてしまうかもしれません。
ですが、そうやって「専門的でないと声を出せない」「マウント取られると怖い」「逆に危惧するところを助長してしまうかも」と考えていたら、いつまで経っても前に進めることができません。むしろ私のように無知でフェミニスト気取りな人が、足元で起きている現実から見出せることを語り合うことが必要に思います。ここで「被害者」という言葉をチョイスしたことに嫌悪感を持たれる方もいらっしゃるでしょう。ですが、男性の私としては今回のフェミニズム議論において「被害」ということをいつだって感受できるようにしなくてはいけないと思ったのです。
過剰な適用が対話を妨げる
個人の発言や行動に対して、「それは男女不平等の構造を体現している」と強く糾弾する場面は、SNSなどでたびたび見かけます。
もちろん、その指摘が的を射ていることも多くありますし、構造を可視化することの意義は大きいでしょう。しかし、時として本来の主張や意図と関係の薄い場面にまで、不平等構造の解釈が“拡大適用”されてしまうようなケースに遭遇します。
このとき問題となるのは、指摘の正当性というよりも、指摘の仕方や、それが引き起こす連鎖的な反応です。
一人ひとりの怒りは自然なものである
まず大前提として、個々の女性が、性差別的な扱いや理不尽な経験に対して怒りや恐れ、あるいは男性全体への不信感を抱くのは、ごく自然な反応です。こうした感情を無理に抑え込んだり、「冷静であれ」と押しつけることは、むしろその人の尊厳を損なう行為だと思います。
私がここで問題にしたいのは、そうした個々の怒りや傷つきに、周囲や影響力を持つ人がどのように振る舞うか、という点です。
SNS時代における「エコーチェンバー」の危うさ
現在のSNS社会では、ある意見が瞬く間に広まり、賛同する人たちの間で増幅していく「エコーチェンバー現象」が起こりやすくなっています。特に影響力のある人の発言は、「この人が言っているのだから正しい」という無意識の信頼のもと、十分な文脈理解を経ずに反響されやすいのです。それが、「特定の個人の発言が社会構造の縮図として断罪され、集団による糾弾の対象になる」といった状況を生み出すことがあります。
こうした展開では、対話の機会を損失するだけでなく、結局のところ、本来の目的である「不平等の是正」から逸れていってしまうように感じるのです。
今回私がこの記事を書こうと思ったのは、まさにここです。個別に呪いの言葉はあるでしょうし、誰もが対話や運動による改善を考えているわけではないことも分かるのですが、そこには呪いの共感しかないように、いや、フェミニズムとは全く無縁のただの唾の吐き捨てでしかないものが溢れているように私には見えて、とても残念に感じたのです。
影響力のあるフェミニストは、そういう結果を望んでいるのでしょうか。
では、どうすればよいのか?
大切なのは、「指摘をやめるべきだ」という話ではありません。むしろ、構造的な不平等に気づき、それを言葉にしていくことは、社会を変えるための大切な行動です。
ただ、その言葉が、誰にどう響くかを想像しながら発信すること。
そして、怒りをきっかけとしつつも、共感と対話の場を閉ざさない発信のあり方を模索すること。
その積み重ねこそが、より多くの人を巻き込む力となるはずです。
「ここにきて、フェミニズムと関係なく、一般的な社会運動全般に言えることだ」「そんなの知ってる」といわれるほどの非常に稚拙な、尻窄みな考察で恥ずかしいのですが、フェミニズム4波がまさにSNSの力によって大きく社会を変革させてきただけに、今日のSNS発信の限界を感じてしまうのです。主義主張がどうしても二項対立的になっていきやすく、社会運動の目的達成を難しくしていることが非常に悩ましいです。
結びに
被害者意識は、個人の経験に根ざした切実な感情です。
しかし、それがあらゆる場面に適用され、他者を過剰に断罪する形で広がってしまうと、せっかくの正当な問題提起が「攻撃」としてしか受け取られなくなってしまいます。さらには「本来味方であるはずの人」を遠のけてしまうことにもなってしまいます。
怒りや指摘が対立を深めるのではなく、共感と変化を促すものとなるように。そのためには、私たち一人ひとりが、そしてとりわけ社会的影響力のある人が、どんな言葉をどんな形で届けるかについて、もう一歩自覚的になることが求められています。
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