籠の中の鳥

教育

今日は教育雑感です。眠いので、いつも思っていることをただつぶやきます。

またいつか詳しく書きます。

今の教育では特に「主体性」を育てることが強調されます。

そりゃ、当たり前です。めまぐるしく変わる世界情勢やテクノロジーの進展によって、「常識」「定石」が次々と変化していくからです。予測できない社会に対応する力って、まあはっきり言えばないんですよ。ないの。スーパーマンじゃないんだから、あるわけないの。

これは、可能性の話。と表現したら大袈裟かもしれない。所詮は世界情勢も技術進歩も人間の手によるものだから。その人間のカッティングエッジに関心をもち、そこからさらなる世界を見ようとするっていうのは「主体性」なんでしょう。

主体性を育てることと、これまでの一斉授業型って死ぬほど相性が悪い。

教師という仕事も、その役割が変化していきているんですね。

指導者という役割よりも、伴走者という役割が大きくなってきている。

下手な指導は、むしろ主体性を損なうから。「何もしない方が、子どもの主体性が伸びる」なんてことだってあるから。

でも、それはあくまでも部分的な例。授業力のない人間が、一斉授業を批判し始めると、安易にこういうところにとびつくから。それはだめよ。だめだめ。アンチは、徹底的に勉強して、批判する論理をもたないと。

教師は「適切な関与」がとっても大事。そして一斉授業だって、大事なのよ。育てるのは「主体性」だけじゃないから。「協働的な学び」をコーディネートするのは、まぎれもなく教師の役割ですよ。

さてさて、表題の件ですけれど。主体的な学びを育むというお題目を研究に掲げるところはごまんとあります。便利用語なだけになっていないか確認。

子どもが主体的に学んでいるかって、それを確かめる方法はめっちゃ簡単ですよ。子ども自身が、授業の1時間1時間に、学ぶ意味を感じているかどうかです。教師に自分の学びに必要なことの指導や助言を、子どもから要求してきているかです。教師が立ち止まっても子どもは立ち止まらない授業です。教師がおわりの時間を気にして急がせても、立ち止まってじっくり考え込む授業です。

教師がお膳立てした課題を、子どもが生き生きと議論しているのは、所詮「籠の中の鳥」です。

子どもも大人も「与えられる」ことは好きですよ。信頼できる大人が、次々に新しい知識を教えてくれたり、楽しい活動を提供してくれたら、そりゃ生き生きと活動しますよ。あったりまえですよ。でも、中にはそこにのっからない子どもも大人もいます。人間関係として乗るか反るかって問題もありますし、ひょっとしたらそれこそ「主体的な学び」の阻害因子になっている可能性もあります。

教師は、子どもが自分の授業を通して「生き生き」と活動してくれたら嬉しいですよ。でも、それがイコール主体的に学んでいる姿と断じていいのかって話。私はそう思わないって話。

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