社会を生き抜く力

教育

 スティールボールランのリンゴォ・ロードアゲインに言わせれば、

「受け身の『対応者』はここでは必要なし」

ということでしょうか。

 私、情報化社会やら情報社会やら社会を「生き抜く」力の育成という言葉に対して、どうしても「生き抜く」には「耐え忍ぶ」とか「どうにか踏ん張ってやりとげる」のようなイメージを持ってしまうのです。

さまざまな苦しみや障害を乗り越えて、どこまでも生きる。生き通す。

デジタル大辞泉

 教育界ではあまりそういう意味では使われていないのかもしれません。もっとポジティブな意味合いなようです。予測困難な状況でも、自らが判断し行動できる力が生き抜く力といった感じです。

 私、これを否定するつもりは全くありません。

 状況をこれまでの経験と知識から見極めることはとても大事。それが大事でなければ、教育に何の役割があるのだろうかと言えるほどでしょう。ただ、「状況」に対して自ら判断し行動する、というのは、あくまでも「対応」なんですよね。

 では、「状況」とはなんなのでしょうか。もちろん数年前からおきた新型コロナウイルスによるパンデミックなんてものもあるでしょうし、大規模な自然災害もあるでしょう。AIによるシンギュラリティの訪れなんてものもあるのかもしれません。これらの多くはまさに社会の営みなのではないでしょうか。(そうでないものももちろんあるにせよ)人間の所業ともいえるやもしれません。

 仮にそうだとすると、これをものすごく雑に表現してしまえば、「社会が引き起こした失態を、後の世代が尻拭いする」ってこととも言えてしまいかねます。そのくせ、その枠におさめようとばかりするならば、大人ってただの老害に成り果ててしまいます。

 私たちは、常に社会を変革させつつ、一人ひとりが社会の担い手、創り手となることを意識することが大事だと思います。「社会を生き抜く力」という押し付けを大人はするのでしょう。それは傲慢の代名詞である人間の所業ですから仕方ありません。でもそれと同時に、次の世代は「そんな大人の価値観を吹き飛ばし、新しい社会を創る」という傲慢を行使することもできます。

 パンクにいくなら、「生き抜けない社会」は離脱するんじゃなくて、ぶっ壊せってことですね。

 でも、若い世代にはわかってほしい。多くの大人は、若い世代に重荷を背負わせたい気持ちなんてないってことを。明るい未来を提供したいと思っていることを。なんていうか、多くの大人が「今の社会を生き抜けていない」んですよ。

 予測困難な状況に陥っているのは、大人なんですよね。生き抜きたいのは大人なんです。

 これを背負わせたくないから、子どもらに「生き抜く力」を身につけてほしいと願うのです。

 若いうちから、他者に寄与できる自分を自覚し、認識と参画の範囲を広げていくこと、そして自身や自分らを問い直すこと、そういった経験の機会を共につくることこそ、今の大人の責任だと思います。

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