価値づけより共感から

教育

 まもなく新年度。スタートカリキュラムを実施している学校も増えてはきていると感じます。ただ、「名ばかり」のスタートカリキュラムもたくさんありますから、そこを憂う気持ちもあります。スタートカリキュラムは方法論的なものもありますが、マインドが最も大事で、そこを抜きにしてはなかなか上手くいきませんし、実施しているときの子どもたちの事象を的確に捉えることができません。

スタートカリキュラムとは

 スタートカリキュラムの目的は、ずばり「子どもたちの安心」を作るところからスタートします。ただ、「安心」の捉えについて、小学校教員は様々であったりします。学校文化において「安心」=「秩序」であることが多いので、気をつけなければならないのです。

 国立教育政策研究所から出されているスタートブックには次のように書かれています。

スタートカリキュラムとは・・・

小学校へ入学した子供が,幼稚園・保育所・認定こども園などの遊びや生活を通した学びと育ちを基礎として,主体的に自己を発揮し, 新しい学校生活を創り出していくためのカリキュラムです。

スタートカリキュラム スタートブック(国立教育政策研究所)

 この言葉にマインドの全てが入っていると言えますので、一つひとつを確認していきます。

何を基礎とするか

 「遊びや生活を通した学びと育ち」であると書かれています。就学前の生活のあらゆる場面での学びと育ちが基礎となりますから、カリキュラムづくりには、園や保護者からの事前の聞き取りも大事になります。

どんな姿を期待するか

 「主体的に自己を発揮」することと書かれています。そして「新しい学校生活を創り出していく」ことと書かれています。

 新しい環境においても、自分らしさを発揮できることが期待されていますから、学校としてはそこを引き出すことがすべきことです。子ども一人ひとりの「自分らしさ」をどのように発揮できるようにするかを考え、場や活動を工夫していきます。

 また、注意したいのが後段の新しい学校生活を「創り出す」という部分です。この視点は、園の教員にはしっかりとあり、反面小学校の教員にはかなりの部分欠けている部分だと私は認識しています。

学校文化に慣れさせることが目的ではない

 全くちがうとは言いません。学校の文化や生活様式に慣れることはもちろん大切なことです。しかし、それがスタートカリキュラムの目的ではないのです。まさか入学式で校長先生や担任の先生が、

先生
先生

小学校に入学したのですから、よい姿勢で座って、しっかり勉強しましょう!

なんて言っていませんよねという話です。6〜7歳の子どもを前に「節目を意識しろ」というメッセージが初発だなんて絶対にありえませんし、あってはならないことです。姿勢良く座ることも、勉強熱心なのももちろん歓迎されることです。でもそれは節目だからではありません。そしてそんな態度でないと学校生活では許されないなんてこともあってよいはずがありません。

 スタートカリキュラムは「新しいことの要求」とか「学校生活での心構えの説法」のためではありません。子どもたち自らが、新しい場で生活を「創り出す」ための支援プログラムです。子どもと一緒に期待や困りを共有し、一緒に解決していく生活が、小学校1年担任を中心として行われていくものです。

価値づけは諸刃の凶器と心せよ

 多くの入学児童は、大人が大好きです。だって、大人はいろいろなことを知っているし、できるから。とくに「できる」ということに強いあこがれをもっています。だから、できることが増える自分のことは、とても誇らしく感じています。

 ちょっとかっこいいところ、子どもが強い憧れをもちそうな分野での「できること」を披露したら、ある種カリスマのようになります。その人の言うことはぴよぴーよぴよぴーよと聞くかもしれません。その人が「こうするといい」「これができるなんてすごい」「これができたらすごい」なんていう導きをすることで、子どもは一生懸命その期待に応えようとします。そして認めてもらえるように行動します。

 そう、そういうことをすれば、ある程度の力量のある先生なら、いともたやすく子どもたちを学校生活に(?!自分の思い描く行動基準に)順応させることができるでしょう。ですが、そういう力量のある先生こそ、ちょっと立ち止まってほしい。そしてスタートカリキュラムの目的がそこにないことを見逃さないでほしい。

 「価値」を明確に伝え、そこへ誘導することは、ある種教師の役目であることも事実です。価値づけという行為そのものは、多くの場面で必要なことでもあります。

 また、子どものできていることに対して価値づけを行うことは、メタ認知の支援にもなりえます。しかし、これは教師として何を行なっているかというと「強化」にあたります。先日、自己調整能力の話を書きましたが、メタ認知にしても、子ども自らがそのようなメタ認知のプロセスを自覚化している必要があります。そうでない場合は、意味をなさないか、あるいは単純に承認欲求への「強化」につながることもあります。

 それが、この発達段階の子どもに及ぼす影響は、非常に大きなものです。悪い言葉ではっきりと申し上げれば、一歩間違えば「手懐ける」という行為になりえるということです。

共感が関係づくりの一歩になる

 スタートカリキュラムの中で、例えば朝の会における担任とのあいさつ。子ども一人ひとりの横にいき、目線を合わせて名前を呼んでハイタッチをするのも一つ。その時に、毎日ひとつお題を出したりします。「好きな色」とか簡単なものから始めます。このとき、担任は「そうなんだね、赤が好きなんだね。」とか「先生も赤好きだよ。」などと話します。まちがっても「みんなに聞こえる声でよく言えました。」とか言いません。うまく言えなくても、「また教えてね。」と話す程度です。明日はがんばろうなんて言いません。(まあさすがにそんな先生はいなかな・・・)

 困ったことは、一緒に悩みます。転ばぬ先の杖のように、全て困らないような場にするわけでもありません。また、なんでもかんでも困ったことを助けてやってあげてしまうなんてこともありません。

 事前の園や保護者からの聞き取りで、特別な配慮事項がない限り、「身辺自立はできている」という前提でいた方がよいのです。もしできていないのなら、学校の場や、時間、声かけ、集団などのどこかに障壁があると考えます。この考え方がスタートカリキュラムです。大人でも、新しい場ではできることがうまくできないことありますよね。それと同じです。本来できることを、小学校という新しい場でもちゃんとできるようにしてあげることがスタートカリキュラムです。

 言葉足らずなことはたくさんありますが、子どもたちは悩みにもちゃんとした思い・願いがあります。「どうしたらいいかわからない」という言葉でも、本当は「体育着をしまう場所が分からない(場所としまい方がわかれば自分でできるのに)」という意味であったりします。そういった子どもの思いを汲み取って、言語化してあげながら共感してあげることこそ、とるべき支援なのです。


 具体的な方法については、また別記事で書いていけたらいいなとも思います。まあ、スタートブックなどを読んでいただく方がわかりやすいかもしれません。

 ただ、これから1週間の間に、新1年生の担任の先生がスタートカリキュラムを準備しなくてはならないのであれば、目先の方法論に飛びつきたくなるのではないかなと思います。その気持ちはとてもよくわかります。ですから、その前にこの記事で、少しだけでも立ち止まって考えていただければと思いました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました