今日は、私自身の「思考を深める」ということについて考えてみます。
学校教育においては「主体的・対話的で深い学び」といいますが、果たして、自分におきかえてどうかな・・・という順番で考えたわけではなく、ここ数年の自分自身の「思考の深まり」が、期待しているようにいかないことを改めてふりかえってみたら、ということです。
結論から言うと、「発信力」の低下が原因で、思考の深まりがなされていないのだろうということ。
20年以上ブログを続けてきて、また15年SNSを使ってきて、ネット上でもたくさんのつながりができました。ネット上では、テキストでの交流が多い分、「思考の喚起」が大きかったと感じます。
ただ、身の回りの方や、異業種交流や、外部研修・研究会で出会った方などと直接的な対話もバランスよくあったということも大きく影響していたと感じます。
発信力を上げるには、「言葉えらび」が大切です。自分なりの思考に一番近い言葉を選んで発信する場合もありますし、相手に共感や理解をしてもらいやすい言葉を選んで発信する場合もあります。そういう点では、発信力には、自分自身がじっくり考える時間と学習が必要に思います。
人の発信に耳と目を傾ける時間も大事です。自分の生活経験のふりかえりをする時間も大事です。そういう自分に蓄積された情報を、整理したりふりかえったりすることで、自分なりの思考につながっていきます。
自分が考えたことを、似た生活をしている人、同じ体験を共有した人、あるいは発信していた本人と直接対話することで、思考が深まります。(思考が深まるだけではなく、有意義な時間を過ごしたという感覚も得られます。逆にその感覚だけに傾注すると思考は深まらないかもしれませんが)
最近のSNSは、「情報消費」の傾向が一層強まったように思います。また、フィルターバブルやエコーチェンバーといったものによって、有意義だという錯覚だけが自分に残っていくことが多いように感じます。これは思考として「空虚」です。
それでもなお、私はネットでの情報発信の力も磨いていきたいです。「いいね」をもらったら嬉しいですが、賛成でも反対でも、コメントをいただけることが一番ありがたいです。
ここまで書いて、「主体的・対話的で深い学び」という言葉を改めて考えてみると、まあまあ自分にも当てはまっているようです。順番があるかというと、主体的な思考と発信なくして、対話が生まれず、対話なくして思考は深まらないという流れが見えてきそうな気もするのですが、実際はそうでもないのだなとも思いました。そして何より、「学び」とか「深い思考」は、最終到達目標ではないということです。私は学者肌でしょうし、哲学人でしょうし、物事を深く考えることに充足感というか生きる上での価値を見出していますから、当てはまる気がするだけであって、多くの人にとって「学び」は、その後の人生の糧にしていくものです。「夢」というと大袈裟ですが、生きる目的の発見と、そこに向かう道程が築かれていくとよいですね。学びは「社会の利益」だけに向かなくっていいんです。(不利益に向いてはいけないでしょうが)
コメント