オンラインコミュニティはどこへ

世情

 本記事は、メモ帳アプリで下書きしたものをChatGPT連携で読み込ませ、齟齬がないかのチェック、内容に対する意見出しをしてもらった上で、記事生成したものです。内容は自分のものでも、文体が変わると自分が書いた感じが全然しません。読みやすくなったのだろうと思いつつ、自分らしい文体でくどくど書いたままでもいいかなあとも思いました。

インターネットでのコミュニティの変遷

インターネット黎明期のこと

かつて、個人でホームページを作ることが一つのムーブメントでした。

「Geocities」などのサービスを使って、自分のWebサイトを開設し、掲示板を設置する――。

そこには、リアルな友人ではなく、同じ趣味を持った“ネット上の誰か”が訪れ、コメントを残してくれました。

ある記事に反応するというよりも、その人の世界観や興味関心全体に共鳴して、掲示板に自己紹介や感想、雑談を書き込む。

そんな、誰もが「居場所」として使えるコミュニティがそこにはありました。


SNSの登場と変化

その後、SNSの登場によって、ネット上のつながり方は大きく変わります。

Mixiは、同窓会のようなSNSでした。

一度離れたリアルな友人たちと、時間や距離を超えて再会できる場となりました。

**Twitter(現X)**の登場は、個人がWebサイトを持たずとも、自分の声を気軽に発信できるようにしたという意味で、画期的でした。

初期のTwitterには、引用リツイートを通じて他者と議論を交わしたり、共感を示したりする「言論のテーブル」がたしかに存在していました。

Facebookは、Mixiに似た性質を持ちつつ、より「リアルな日常をオンラインに持ち込む」場所でした。

友達の友達と繋がる中で、関心ごとのネットワークが自然と広がっていく――そんな側面もあったと思います。


そして、今は……

では、現在のネット空間はどうでしょうか。

**X(旧Twitter)**は、広告とbotにあふれ、ニュースポータルの劣化版のようになってしまった印象があります。

インプレッション稼ぎを目的とする投稿や、ただ攻撃的な言葉を投げつけるだけのアカウントも多く、「言論を交わす」場としての機能は著しく損なわれています。

noteは、比較的落ち着いた印象のある場所ですが、「読者をどうかかえるか」という視点での物書きが中心で、プロやセミプロでなければ収益化は難しく、またAI生成や情報の横流しのようなコンテンツも増えつつあります。

一見、活発に見えるこの空間にも、「互いの意見を持ち寄って深め合う」という言論の場はあまり見られません。


言論の場は、どこへいったのか

インターネットのよさのひとつは「有意義な言論のテーブルを、誰もが自由に用意できる」場でした。

特別な肩書きも必要なく、趣味の延長や思いつきから生まれる対話にこそ、深い価値があったと思うのです。

しかし今、そうした“言論を交わすためのコミュニティ”は、どこにも見当たらなくなってしまったのではないでしょうか。

声を上げればノイズにかき消され、議論の試みはすぐに炎上や分断にすり替えられる――。

そんな空気感が広がっているように感じます。

一方で、BeRealのように「等身大の自分」をシェアすることを重視したSNSも生まれてきています。

それは、これまでの「飾った自分」や「承認欲求の延長線」とは違う、新しい“つながり方”への試みとも言えるかもしれません。

ただ、そこに“言論”があるかと問われると、また別の話です。


最後に

あらためて思うのです。

ネットの良さとは、誰もが簡単に「語り合える場」を持てることだったのではないかと。

個人の考えや気づき、体験を誰かが拾い上げ、反応し、また別の誰かが対話に加わる。

そんな自然発生的なコミュニティが、かつてのインターネットには確かに存在していました。

今、私はそういった場を見失いつつあります。テレビ以上に情報消費媒体と化してしまっているネットの中で、もう一度、言論の場や語らいの場を取り戻したい。

いいねボタンは気軽だけど、生産的なコメントを残す活力を取り戻すにはどうしたらいいか、考えています。

コメント

タイトルとURLをコピーしました