問いをもつ

教育

教育実習生をこれまで4名ほど担当させていただく機会がありました。

教育実習の指導教官は、中堅なりたてくらいの教員が担当することが多いと思います。フレッシュな実習生の指導には、自分の積み上げてきた経験値とそして価値観を「説明」する力が求められますから、自身のキャリアスキルの向上にもなるからです。

私は7年目のときに初めて実習生担当になりました。4人目の方は昨年度。

これまで担当させていただいた方は、本当にお一人おひとり素敵な方で、持ち味もそれぞれでした。連絡をとりあったりはしていませんが、どの方も教員になられたので、ご活躍中だと思います。

授業は、それはなかなかうまくいくものではありません。でも、特に小学校は「子どもと生活を共にする」というのが大きな使命でもあり、またこの仕事のよさでもあります。先生が大好きでどんどん近づいてくる子どもたち、だから実習の授業もなんとか先生に協力しようとしたりもする、でも実習生側からしたら「授業になると距離が遠くなる」感覚ってきっともつ。そこで反省する。

こういう肌感覚って、「やっぱり子どもにとって授業は楽しみであるけれど、何をどうしたらいいかが分からないとチーンってなっちゃうんだな」という大事な気づきになるんですね。

徹底的に応援はしますが、「絶対失敗しないように」とか「助け舟をほいほい出す」ということは、その気づきの機会損失になると思うので、事後指導の中で言葉を引き出すようにしてきました。


今日、ちょっと話題にしようと思ったのは「発問」です。SNSを見ていて、とってもすてきな実習生の方がいらっしゃって、そこからいただいた気づきです。

教育実習生は、指導案を作成する、あるいは実習日誌で授業のふりかえりを書く際に必ず「発問の吟味」に言及されます。

きっと、大学でそのように指導されてきているのだと思います。

確かに、教員の教科教育研究会においても、「発問」をすごく大事にしてきた部分があります。

大事であるのは十分承知していますが、私はあまり「発問」に執着してほしくないと考えています。

なぜなら、一生懸命思考を働かせるときとは「自ら問いをもった」ときだからです。

自分が「なんでだろう?」「これはどういうことかな?」「ええ、それは違うんじゃないかな?」などと、これまでの自分の知識や考え方では解決ができなかったり理解し難かったりする事象と出合うことが、問いをもつきっかけになります。

発問というのは、先生が問いを投げかけるということです。

スタートラインに立っていない、あるいは違うことを考えていたときに、先生から問いが発せられたらどうなるでしょうか

子どもは、先生が問いを出せば考えなければならないと思っていますので、ベースとなるものがない中で、すなわち何を考えたらいいかよく分からないけれど、「考えるという動作」をしようとします。また、今違う問いをもっていた子にとっては、思考が分断されてしまうことになります。

主体的に学ぶ子を育成するために、子ども自らが問いをもつように支援することが大事。先生が問いを掲げるのではなく、子どもが問いをもつようなしかけをしていくということ。


教授型の授業の最大効率を図る手段として「発問」は効果を発揮します。

これが不要なわけもなく、これからも研究会などではつきつめていくものもあろうかと思います。

それくらい、「発問」は諸刃の剣なのです。

だからこそ私は、とくに実習の先生には、そこではない要素こそ大事にしてほしいなと思います。もちろん、実習生がそこを足がかりに授業をしたいとお考えであれば、否定することはしませんし、誠心誠意お手伝いします。

ただ、子どもとの限られたすてきな時間を、「上手に教える」指導技術よりも、子どもの表現したいものを両手を広げて受け止めることにつかってほしいと願うのです。

授業展開などは、書くならまた別記事にしますが、せっかく「問い」の話をしたので、少しだけ蛇足。

「?」となっただけでは、まだ「問いをもった」とは言えないんですね。そこには「言語化」が必要です。言葉になることで、思考が始まります。そこに至る部分には、個別の声かけや全体化などいろいろな方法があり、またそこにはさまざまなテクニックがあります。

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