自分の常識は他人の非常識?

世情

「自分の常識は他人の非常識」

この言葉を真逆ないし的外れな使い方をしている人が多いようです。

また、誤った使い方をされる方は、常識と倫理も混同しているケースが多いと感じます。

とにかく悪いのは相手

SNSで散見されるのは、
「あなたの常識は、非常識なんだよ」
と責めるために使ったり、
「常識は人それぞれ〜」
と自身の誤りを居直る免罪符にしたりしているものです。

本来の使われ方?

本来、この言葉は、「自分の中にある常識を疑うことで、より多様なものの見方をしていくことが新たな発見につながり、前に向かっていく」という、自己内省の意味と捉えるべきだと私は考えています。

自分がこれまでに築いてきた不確かな知識や慣習などに相容れない他人の言動を断じるのは、傲慢でもあるし、なにより貧しい態度です。
また、議論の中で自分の主張の不都合な部分を指摘されたときに、自己内省ができず、ただ相手を拒絶するだけというのも、みっともなく、前進を阻むものにすぎません。

常識と倫理はまったく別物

常識は、「当たり前」として考えることをしない、自身の中にある知識や風土であるのに対して、
倫理は、人としてのあり方や社会の営みとしての最適解を問い続ける、哲学的課題です。

思考され続けているかどうかという点において、両者は真逆といえます。
また、扱う対象も一致していません。

倫理課題が議論のテーブルに広げられているのであれば、常識の提示はスタートラインに立っただけのことであり、そこから先は多面的・多角的で新しい視点を受け入れながら考察していく姿勢が求められます。主張の不都合な部分を指摘し合い、合理的で最適な解を見出していくのは、共同作業です。目的をはきちがえ、自身の正当性だけに固執している議論は、子どもの口喧嘩のように見えてしまいます。

また、倫理課題の着地点である法律について、その内容を知らずに違反していることを悪びれず投稿する者がいたとして、その投稿に対して違反を指摘したり抵触を危惧したりするコメントに「そんなの聞いたことがない」「私が知らないものは常識ではない」と開き直ったり、「これは今なお倫理課題なのだ」とすり替えたりする姿は、駄々をこねているようにしか映りません。

確かに法律は、倫理課題として時代背景などに合わせて見直され、再び議論されていくべきものです。しかし、規範を無視した言動を「常識」を盾に正当化するのは暴力的ですし、ただの無知を開き直る姿勢は、社会から冷ややかに受け止められても仕方がないでしょう。

アインシュタインはこう表現してはいない

「自分の常識は他人の非常識」という言葉は、名言集などでアルバート・アインシュタインの言葉とされることがありますが、本人がどこかの談話や著書でこのように表現した記録は確認されていません。世界的にも「本人の言葉ではない」という理解が主流です。

アインシュタインはご存じの通り相対性理論を唱えた物理学者です。光速度一定の原理などは「常識や直感に反する」驚くべき理論です。どの慣性系から見ても光の速度が一定であるというのは、「知識として納得する」あるいは「実験で観測する」ことなしには到底受け入れがたいでしょう。

リンカーン・バーネットが “The Universe and Dr. Einstein (Part II)” の中で、
「アインシュタインが common sense is actually nothing more than a deposit of prejudices laid down in the mind prior to the age of eighteen. と指摘しているように」
と書いたことが名言集に取り込まれ、本人の言葉とされて広まったと考えられています。バーネットは厳密な引用形式をとっていなかったため、アインシュタインとの対話から要約した可能性が高いと見られています。

では、そもそもバーネットはどのような文脈でこの言葉を用いたのでしょうか。確実なことは不明ですが、少なくとも理論物理学を一般読者に紹介する文脈で、「固定観念にとらわれるな」「直感や既成概念を超えて思考せよ」という知的姿勢を促すために使ったと推測されます。

こう考えると、「自分の常識は他人の非常識」という日本語訳は、ニュアンスが変わってしまっている部分があると言えます。とりわけ「自分」と「他人」の対立を強調する翻訳は、本来の意から外れてしまう要因だったのかもしれません。翻訳過程で意味が変形してしまった可能性は否定できません。

つまり「自分の常識は他人の非常識」は、もはやアインシュタインの名言ではありません。しかし、アインシュタインやリンカーン・バーネットの意図を汲むのであれば、向けるべき矛先は相手ではなく自分自身の内省です。

最重要ポイントは、そもそも議論のテーブルなのかということ

法律に反した行動を、無知のまま得意気に投稿しているのを見れば、諫めるコメントをつけることはあるでしょう。コメントをつけるのか、あるいはSNSに用意されている「通報」機能を使うのかは選択の問題です。
ただしコメントをつける際には、相手が受け入れるか居直るかは相手に委ねる心持ちが大切です。自己満足のためや、相手を断罪する感情をぶつけるべきではありません。

そしてSNSでは、倫理課題を深く議論している例はほとんど見かけません。
大半はただのつぶやきです。中には寓話の「王様の耳はロバの耳」のように吐き出してすぐ埋められるだけの発言もあれば、承認欲求や共感欲求を満たすための投稿も多いでしょう。
そうした場にわざわざ割って入り、自分の常識に合わないからと「他人の非常識」と指摘していく行動は、建設的な対話ではなく、感情的な反発を生みやすいだけです。

それでも、あるならあってほしい

SNSの短文投稿は、深い議論をするには向いていません。多くの場合はwebサイトや動画など外部コンテンツへ導くための窓口です。

それでも私は、「限られた文字数の中に、自分の主張をまとめ、言論を求める」という姿勢があってよいと思います。生成AIが発達して、一人で思考の壁打ちができるようになりましたが、他者とともに倫理を探究したり、常識を更新していったりする作業は、やはり対話でしか得られません。

簡単なやりとりから始まり、サークルを作り、オンラインミーティングやオフ会で議論を深めていくことも可能です。そうした仲間を作っていければ、人としても生き方としても、より豊かで鮮やかなものになっていくでしょう。

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