令和の運動会

教育

 令和っていうか、平成からありましたけれど。

「全員で手をつないでゴールする徒競走」とか、わけわからん(個人の主観ですが)徒競走については、ずいぶん昔からニュースで話題になっていました。幼稚園とかでも親が「うちの子を主役にしろ!!」と圧力をかけてくるから5人くらい主役がならぶ劇とかがあるというのもやっていましたね。

 職場の運動会も、ここ何年もかけて議論を交わし、「学習指導要領のねらいにそった教育活動」になるような行事へ移行をしようとしています。

 富国強兵のために始まった行事。軍事教練のためにあった行事も、戦後から少しずつ少しずつ「生涯スポーツに親しみ、自身の心身の健康と体力向上に関心をもつ」というねらいに近づいてきているのだと思います。

 中学校で部活動が続いていることや、今の親世代はまだ「根性論」のある部活動を経てきているというところもあってか、どうしても小学校体育の本質に対する説明が浸透していきません。たぶん、「技能が高い子が体育の成績が良い」という印象がほとんど全てを占めていることでしょう。

 一方で、とっても残念なことですが、「見せ物」という思いで運動会を参観する人もたくさんいます。子どもたちのがんばる姿を見るのはたしかに「みもの」です。たくさんの感動があります。競い合う姿も尊いです。ただ、競い合う姿は客観的に見てよく分かる一方、個人の内でのがんばり、いわば自分との戦いについては客観的にはよくわからないのです。自分の子どものことを日々しっかり見ていれば、いろいろな困難があろうがその中で乗り越えてきたものなどを見とることができますが、他人の子どもの内面的なものは、当日だけでは見てとることができません。個人内のがんばりには、本当に本当に尊いものがあります。そこを丁寧に励まし、支援し続けている教員がいます。(もちろん保護者も)それは誰かに勝つためじゃないんです。自身の中での成長に向けた努力なんです。

 「社会に出れば競争があるから、競争を経験させることも大事」という意見も、ネットのコメントで見受けることがあります。わずかとはいえ、的外れなものとまではいえせん。小学校の段階で競争が必要かどうかは別としても、まあ的外れというほどではありません。でも、そもそも、令和の運動会は競争を全く否定していないんですね。令和の運動会というか、体育の中で競争はあります。ゲームってそういうものです。ただ、そこが第一義でないですけれど。

 ここから書くことは、個人の考えであり、組織の考えではありません。(組織の意見と食い違っているという主張ではありません)

 私は、運動会は勝ち負けがあってよいと思っています。それは赤と白といった集団としては。そして競争があってよいと思っています。1位を決めることは目標にもなるからよいと思います。ただ、運動会は、ものすごいたくさんの衆目にさらされているということは誰にでも分かることで、そこで「ビリ」を決めてそれが晒されるということは重大な人権侵害だと考えています。

 全ての子どもにとって、体育は生涯体育であって、一人ひとりが生涯にわたって健康な心身をつくっていくことに関心を高めて、実践力をつけていくことが大事です。その意欲をくじくようなことを積極的に行うというのはあってはならないことです。

 毎年、運動会の時期、これはどこの学校でもあることですが、一定数苦しくてドロップアウトしてしまう子どもがいます。指導の熱が入って急に体育の時間が増えたり、学年相応の指導内容にそぐわない無理があったりするからだと思います。また、同調圧力もあって、がんばりたい人たちの「がんばらせたい」圧力に苦しむ子もいます。こういう思いを絶対に、誰にもさせたくない、という思いをもつのが令和の教員集団なんです。応援団にしてもただ「勝ちを煽る集団」ではなく、「運動嫌いなんだよな、徒競走でびりになるの嫌だな」などとネガティブになっている子にこそ励ましができて、「運動は苦手なんだけれど、仲間の励ましもあって、運動会は楽しかった」と思えるようにしてあげられる集団であるということを私はずっと語り続けています。まあ、これは団というかたちでなく、全員がそうであってほしいことでもありますが。

 さて、がらりと話が変わりますが、私は毎年「放送」の担当になります。この担当はとってもさびしいんですね。子どもたちから遠い場所にいるから。できれば応援席で子どもと一緒にいたいんです。でも、技術的な問題からなのか、毎年私は放送担当です。

 今はShazamのおかげで、私が流している楽曲も、ほぼ自動的にスマホに表示されますよね。王道を行く楽曲も使いますが、私は結構ゲーム音楽を採用します。やったことがないゲームでも、曲の雰囲気で採用することがあります。運動会の初めから終わりまで、シナリオを考えて楽曲をあてがっていく感じです。ここ数年は、「なるべく音楽が途切れないように」と意識しています。また、そうすることであるプログラムの前だけ音楽が途切れるようにすることで、心を揺さぶれるといいなという思いももっています。そういうことが伝わるかどうかは正直全くわかりませんが、自然とそういう気持ちの流れが生まれてくれていたらいいなという思いです。学校の音響設備は経年劣化でうまくいかないこともたくさんあるんですけれど、できる限り音質をそこなわないようにという努力はしています。

 と、私なりに担当した部分で語ってみましたが、世の中の先生方も、それぞれに自分の思いをしっかり言葉にしてみてほしいです。「組織」は「組織」。でも個人と区別さえすれば、個人の考えを表現することは必要だし大事だと思います。

コメント

タイトルとURLをコピーしました